多様性とは

最後の週末、風邪をひいている。

いつもはほぼひかない風邪を今、ひいている。


夢だった留学生活をたったあと5日残した、今。

いつもより熱めの、38.4℃でお送りします。



ここ、New Yorkに来た目的の一つに間違いなくこれがある。

「多様性を受け入れ、尊重できる人間になること」

様々な異なる価値観に触れ、感じ、理解する。

世界中から人が集まっているここNew Yorkではそれらが日常茶飯事で行われた。


例を挙げればきりがない。

まずは、ルームメイトがサウジアラビア人だった。

毎朝5時に起き、お祈りをする。

何かぶつぶつと呟きながら、地にひれ伏し、お祈りをしている。

また、1日に5回、どんな日でも欠かすことなく、必ず祈っていた。


クラスに行けば、そこには自己主張の強いフランス人、陽気なイタリア人、おもしろいアルゼンチン人、自分と似て非なる中国人、そして25歳には見えない長身のアメリカ人先生がいた。


ここで学んだこと。


もちろん英語。

そしてその次には自分の留学目的の一つ、多様性というキーワードがあった。


フランス人は自己主張が強い。

アルゼンチン人は意見をすぐに言う。

イタリア人は細かいことを気にしない。

中国人はあまり喋らない。


このように、国によって性格が異なっていたり、特徴があったり。

でも、そういうことではない。

もちろんそれらは統計として現れることに、間違いない気はする。

でも、そういうことではない。



どこどこの人はこういう人だからこういう対応をして、こう付き合っていけばいい。

それが多様性を受け入れること?違う。


全くさらの状態でその人をその人として見て、知っていくことでは?

どんな見た目であろうが、どこの国出身であろうが、どんな印象があろうが。


偏見に基づく言い方をすれば、心優しいイスラム系の人も、静かなフランス人も、真面目なイタリア人、踊ら(れ)ないブラジル人、オープンマインドな中国人もたくさん出会った。


今思うのは、彼らの多様性を認め、受け入れることはそう難しいことではなかったように思う。

それは、あらかじめ違うという認識があるから。

彼らはどんな人なんやろう。どんな強いクセがあるやつなんやろ。

そんな認識で接していたからある意味容易いことやったのかもしれん。

(もちろんど偉いクセのやつもおった。出会った一発目から「お前の発音バグってるから聞こえへんわ!」言うようなやつも。笑)


じゃあその中で実は一番難しいのって?


日本人同士。


人口の大多数を同一の民族が占める、ほぼ単一民族国家。

その中で、みな同じことが当たり前で生きてきた。

さらには、日本の文化の「全てを言わないこと」や、省略の言語であることも加わり、日本人同士はどこか通じ合えると思い込んでいる部分がある。


その中で、ふと違う価値観の人間に出会うと?


すかさず否定に走る。変わってるというレッテルを貼る。批判の的となる。


実は一番難しいのは日本人の違いを認めること、そして受け入れていくことなのではないか。






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